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定義の罠

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前投稿からの連投となりますが、とある集計業務中のワンシーンで身につまされる事がありましたので、急遽投稿する事にしました。

センセーショナルな内容の為、耳目を集めて賛否が大きく分かれると思いますがご容赦下さい。

当施設で導入しているラーニングシステムの内、受講必須に設定している虐待についての研修があります。

その中で、当施設職員が投稿したレポートで少し考えさせられる内容が目に留まり、アンサーに苦慮した為、今回は虐待の定義について、※個人的な解釈をお話してみようと思います。

端的に言うと、虐待の定義を構成する内容の1つ1つは、言わば一個人のエゴによる解釈と捉えています。

ここだけ切り取られるとかなりの批判を頂きそうなので、その理由はのちほど。

表題にした定義の罠ですが、これは定義という型に嵌め込みすぎるあまり、身動きが取れなくなり、返ってサービスの質が低下する恐れを懸念し、そう銘打ちました。定義=無謬である。間違いではありませんが正解でもありません。既に二律背反ですが。

もう少し深く説明すると、虐待という言葉はあまりにも多層的且つ広義的で、その定義付が本質的な問題を矮小化してしまう恐れがあるという事です。(矮小化されがちな問題については虐待のお話から脱線するので差し控えます。)

その為、虐待と見なすか見なされないか、ここが虐待に対する重要な考え方の一つだと思います。

定義という型に拘るあまり、個を尊重せず一様に紋切り型の仕事をするというのは、他のハレーションを引き起こす逆進性が否定できません。

状況の如何では虐待に該当するかもしれないという判断が難しいファジーな対応の際、虐待の定義に包括されている拘束や、拘束の定義に包括されているスピーチロック等、定義された虐待の一意に定めず、普遍的で共通認識されている、いわば客観性のある虐待を除き、定義上、虐待に該当し得る場合であっても、然るべき手順や至る経緯、それらが道義に反していなければ虐待とはみなされない、又は必要な措置であるという擬制を成立させるため、手続き的正義の考えを基に、必要条件と十分条件の設定を行う事が肝要です。

更に言い換えれば、ご家族様の眼前でできる事なのかどうか、それに対するリアクションが批判的だとしても主張に一定の正当性が担保されており、批判者の腑に落とせる材料があるのかどうか、これが虐待か、虐待とみなされないかの境界線でもあるように思います。

決して虐待を容認している訳ではありませんが、倫理感という個人の解釈や価値判断による一定の余地が含まれる定義は原則であり変遷し得る為、定義は変容の性質を持ち合わせており、無謬性はイコールではないという事です。

一方で、センシティブではありますが虐待を殺人に置き換えて考えてみましょう。 平時において殺人に対する普遍の共通認識は悪一色で、殺人の定義も単純明快です。

しかし戦時という有事、その環境要因で発生した殺人に対してはどうでしょうか。殺めた人間が外敵であれば恐らく称賛を受ける事でしょう。この様に、定義上は非でも解釈が是となる相反関係に転じます。要はダブルスタンダードな状態です。

スケールの大小はあれど、殺人は殺人で虐待は虐待。この考えを実体的正義と言いますが、この話も以前にしましたね。

定実体的正義に基づいた勧善懲悪の認知バイアスは時に、自縄自縛となり得ます。

定義(総論)ではなく、解釈(各論)を是とする場合、至るプロセスは精緻に踏むべきという事です。

次長 足立

2024.12.07

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