反対意見との向き合い方
暦の上では初秋に入るも、まだまだ夏の残暑は続いておりますが、皆様いかがお過ごしでしょうか。
前回、手続き的正義のお話をさせて頂きましたが、前回に引き続き、手続き的正義の考え方を基に、この反対意見との向き合いか方がいかに重要かを、少しお話してみようかと思います。
判断や決断が迫られるシーンにおいて、誤断を恐れるあまりに身動きが取れなくなり、判断や決断を他人に委ねてしまう。その様な事態はいかなる決定権者も忌避すべき事ですが、誤断を恐れる深層心理を覗いてみると、往々にして反対意見との向き合い方を違えており、深慮せず盲目的に批判を恐れているに過ぎない場合がほとんどだと思います。
もちろん、代替案も出さずに否定一辺倒な主張や、冗長的で定性的なファジーな論理、またはパーソナルアタック等、論旨とかけ離れたトーンポリシングで議論の場を乱すような例外も中には居るでしょう。しかし建設的且つ生産的であるべき議論の場においての有用な反対意見は、自身の判断や決断の不純物を濾過する自浄作用があり、その他にも様々な複利が包含されています。
しかし決定権者が実体的正義を偏重しすぎると反対意見が過熱し、本来有用であるはずが無用の長物となり、議論も紛糾します。
その為、毀誉褒貶は世の常で、キャンセルカルチャーを恐れず割り切り、無謬性に囚われ絶対的な正解を求める実体的正義の考えを偏重するのではなく、答えの見えない難しい判断や決断が迫られた時にこそ、総合的判断で最適解(全体最適)を導くためのプロセスを精緻に踏めば、どのような結果においても擬制される余地がある、この手続き的正義の考えを基に、反対意見を出し尽くさせる事が必要です。もちろん、ビビットな対応を求められる場合は時限やタームを切りながら、可能な限り議論を尽くす事が肝要となります。俗に言う、万機公論に決すべしです。
また、議論における反対意見をマイナスに捉えるのではなく、清濁併せ呑む気概と、枝葉末節な言説に踊らされ走馬看花とならぬよう、着眼大局を持って反対意見と向き合えば、必ず衆力功を成せるというマインドで議論に挑むのがベストです。
その上で、三本の矢(1本だと折れやすいが3本が束になれば折れにくい)という訓えがあるように、自己言説の正当性に拘るのではなく、反対意見や異論を融和させ、自己言説を補強できれば尚良しで、反対意見に耳を傾け議論を尽くした後、下された決断や判断に誤りがあったとしても、議論を尽くした場合と尽くさなかった場合の悪果は、心証も違えば事後挽回のレジリエンスにも大きく影響します。
故に、反対意見との向き合い方と題し、長々と反対意見の有用性を書き綴ってはみましたが、纏まりが悪くなってきたので今回はこの辺で。
次長 足立